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お知らせ
2011/9/28の日本経済新聞に中塚銘木店をご紹介いただきました!
日本経済新聞に中塚銘木店をご紹介いただきました。
【タイトル】200年企業-成長と持続の条件 173「木に造形美「在庫は宝」中塚銘木店、災禍に負けず」
【掲載日】2011年9月28日
【発行所】日本経済新聞
■記事紹介
大量の在庫を抱えることはマイナスと経営学は教える。だが建築用木材を扱う中塚銘木店(岡山市)の10代目、中塚淳一郎会長は「在庫は宝」と言い切る。「まずモノが無いことにはどうしようもない。うちには50年寝かしてある高級床柱もあるが、別に腐るわけじゃない」と意に介さない。
中塚銘木店がある岡山後楽園西側の旭川堤防一帯は中国山地で伐採してイカダに組んだ杉やヒノキが毎日のように届く材木商の集積地だった。その恵まれた立地に目を付け、初代の利右衛門は銘刀「備前長船」で知られる備前福岡(岡山県瀬戸内市)を出て、現在地で材木商を始めた。
利右衛門は岡山藩の御用商人となり、「津崎屋」の屋号で手広く商売していたが、詳しい資料は空襲で焼けた。「明確なのは利右衛門が亡くなった年。その1801年を創業年と定めた」と淳一郎会長は話す。
事業を拡大したのは7代目・中塚伝五郎氏だった。旧専売公社のたばこ工場建設で木材を大量に納入。その後、日清、日露の両戦争に勝利して勢いに乗る軍が1907年、岡山市に第17師団の設置を決めた。司令部や兵舎、倉庫から病院まで様々な建物が計画され、伝五郎氏は蒸気機関を動力にした製材所を立ち上げ精力的に用材を納入した。
ところが膨大な需要をまかなうために、秋田へ買い付けに行かせた船2隻が台風で沈没、一転して巨額の債務を背負う。岡山市内に60軒近い借家を持ち、その一角は「中塚町」と呼ばれたが、手放さざるを得なかった。師団の仕事に懲りた伝五郎氏は「材木屋とできものは大きくなったらつぶれる」と言い残した。
昭和の初め、婿養子に入った9代目の中塚洋一郎氏は岡山市内に同業者が100軒近くひしめくのをみて、経営の軸足を一般の建築用材から銘木に移した。木目や色が鑑賞的な価値を持つ木材を銘木と呼ぶ。水中や土中に埋もれて長い年月を経た神代杉、ケヤキ、クリ、柿など種類は様々。元の形状を生かしながら製材し、磨いてから家具や床の間などにする。豊富な在庫を抱えてこそ成り立つ高付加価値ビジネスである。
だが34年の室戸台風が再び災厄をもたらす。「旭川があふれ店は背よりも高い水につかり、貴重な木が流出した」(淳一郎会長)この時に近所の同業者は廃業するか転出した。試練はさらに続き、45年の岡山空襲で店は焼失、蓄えた銘木もほとんどが灰になった。
度重なる災禍。それでも洋一郎氏はくじけず、戦後になって再び銘木の買い付けを始め、現在に至る。いま事業の生命線である買い付けは淳一郎会長と11代目の中塚利信社長が担う。その一方で瀬戸大橋を渡り、対岸の香川県坂出市にある企業に営業攻勢をかけたり、銘木を洋風住宅に合う特注のテーブルや家具に加工し、納める仕事を伸ばしたりすることで、業容の拡大を図っている。
中塚銘木店にはもう一つ課題がある。木の文化をいかに継承していくかだ。毎年10月に社会見学で30~40人の小学生がやって来るのを受け入れているが、「そのうち木の柱に見える家に住んでいる生徒が3人程度しかいないことに衝撃を受けた」と利信社長は話す。住宅の洋風化で和室が減ったからだ。
「松の柱は掃除のときにからぶきしてやれば年とともに美しいあめ色になる」。利信社長は子どもたちにそんな話を聞かせ、木に対する認識を変えていく地道な取り組みも続けている。
(編集委員 竹田忍)
銘木・木工芸品・木製家具・建築用木材・ウッドデッキの「いい銘木店」中塚銘木店